箏曲は 《日本音楽・奈良時代・中国》
チター族の箏を主要楽器とする日本音楽の種目名。
箏は奈良時代に中国から伝来し、雅楽の管絃曲でも演奏するようになった。これを楽箏とよんでいる。
その後、室町時代には雅楽と中国の七絃琴の音楽の影響下に、久留米の善導寺において、賢順が筑紫流箏曲を確立した。
やがてこれらは近世箏曲へとつながっていった。
なお、これらの近世箏曲に使われる箏は、一般に楽箏に対し俗箏とよばれる。筑紫流箏曲を学んだともいう八橋検校からその歴史が始まる。
彼は都節音階の平調子の調弦法を案出し、近世音楽としての第一歩を踏み出した。
そして箏組歌や段物を作曲した。
やがて八橋の流れをくむ盲人音楽家の間で17世紀後半には八橋流、継山流、生田流が、18世紀に藤池流などが成立した。
とくに広義の生田流は大坂、京都をはじめ江戸、九州、名古屋にも広まり、最大の流派に発展する。
流祖生田検校は雲井調子、中空調子をつくり、角爪を使用、三絃との合奏に意を用いたという。
それ以来、地歌曲に箏の手付けをして合奏することが盛んとなり、さらに市浦検校以後、別旋律で箏を演奏する替手式箏曲が主流を占めるようになっていった。
なかでも八重崎検校の京流手事物の箏手付けに名曲が多く、現在までこうした地歌種箏曲が人気曲となっている。
一方、江戸では一時期生田流が進出していたが、山田検校が現れて、河東節などの影響下に、箏を主とし、三絃を従とする語物的性格の強い山田流箏曲が誕生した。
かくして、江戸では山田流が圧倒的勢力を振るうこととなり、京坂の生田流系統に対抗し、独自の世界をつくりだした。
やがて幕末期になると、手事物にも行き詰まりが生じ、また、この期の復古主義思想の影響を受けた箏曲がつくられるようになった。
三絃よりも箏に重点を置くという総体的傾向のもとに、京都の光崎検校は段物や天保組とよばれる箏組歌を復活させ、名古屋の吉沢検校も古今調子による箏組歌、『古今和歌集』に取材した古今組シリーズを作曲した。
もっとも、その一方では明治期にかけて、幾山検校や松阪春栄らによる伝統的手法による京流手事物の作曲も行われていた。
箏は奈良時代に中国から伝来し、雅楽の管絃曲でも演奏するようになった。これを楽箏とよんでいる。
その後、室町時代には雅楽と中国の七絃琴の音楽の影響下に、久留米の善導寺において、賢順が筑紫流箏曲を確立した。
やがてこれらは近世箏曲へとつながっていった。
なお、これらの近世箏曲に使われる箏は、一般に楽箏に対し俗箏とよばれる。筑紫流箏曲を学んだともいう八橋検校からその歴史が始まる。
彼は都節音階の平調子の調弦法を案出し、近世音楽としての第一歩を踏み出した。
そして箏組歌や段物を作曲した。
やがて八橋の流れをくむ盲人音楽家の間で17世紀後半には八橋流、継山流、生田流が、18世紀に藤池流などが成立した。
とくに広義の生田流は大坂、京都をはじめ江戸、九州、名古屋にも広まり、最大の流派に発展する。
流祖生田検校は雲井調子、中空調子をつくり、角爪を使用、三絃との合奏に意を用いたという。
それ以来、地歌曲に箏の手付けをして合奏することが盛んとなり、さらに市浦検校以後、別旋律で箏を演奏する替手式箏曲が主流を占めるようになっていった。
なかでも八重崎検校の京流手事物の箏手付けに名曲が多く、現在までこうした地歌種箏曲が人気曲となっている。
一方、江戸では一時期生田流が進出していたが、山田検校が現れて、河東節などの影響下に、箏を主とし、三絃を従とする語物的性格の強い山田流箏曲が誕生した。
かくして、江戸では山田流が圧倒的勢力を振るうこととなり、京坂の生田流系統に対抗し、独自の世界をつくりだした。
やがて幕末期になると、手事物にも行き詰まりが生じ、また、この期の復古主義思想の影響を受けた箏曲がつくられるようになった。
三絃よりも箏に重点を置くという総体的傾向のもとに、京都の光崎検校は段物や天保組とよばれる箏組歌を復活させ、名古屋の吉沢検校も古今調子による箏組歌、『古今和歌集』に取材した古今組シリーズを作曲した。
もっとも、その一方では明治期にかけて、幾山検校や松阪春栄らによる伝統的手法による京流手事物の作曲も行われていた。
update:2010年03月17日
